2008年6月9日月曜日

ドブロブニク(ラグーザ)


ドブロブニク(旧名ラグーザ)は長いベネチュア共和国の長いアドリア海支配の間も、ある程度の独立を維持してきた交易都市として繁栄を続けていたことで有名です。
そこで疑問となることは、同じ交易を主産業とするベネチュアが何故ラグーザの独自交易と独立(ベネチュア最盛期には自治というほうがあたっている)を認めてきたのかということ。
国を現代でいうところの株式会社と同じように「経営」してきたベネチュアが商売敵とでもいうべきラグーザをなぜ認めてきたのか。
ネットで歴史を調べてみても、ラグーザは交易都市国家として発達、ベネチュアと異なりビザンチン帝国の属国としての立場が強く、宗教が異なった(ベネチュアはカソリック、ラグーザは正教)などの情報は出てきますが、同じ交易都市国家としてアドリア海の覇権を握っていたベネチュアがラグーザの立場を認めてきた理由は見当たりません。
その理由は交易の対象となる国と経路が異なって点にあることがわかりました(前回掲載の本を読んだ結果です)。
ベネチュアの交易路はアドリア海を縦断、イオニア海からエーゲ海、東地中海であり、オリエントと西欧の間の物資交易が主たる目的でした。
これに対し、ラグーザは後背地であるバルカン半島内陸と深くつながり、内陸諸国家と対岸であるイタリアを経由する西欧諸国家との間の交易を目的とする国家だったのです。
当時、文化的には遅れていたとされるバルカン内陸の諸国家には西欧の文物(モノだけではなく、西欧の文化全般)を持ち込み、バルカン半島からは豊な鉱物資源を持ち出す、これがラグーザの交易であり、その故ベネチュアの競争相手とは見られなかったようです。
確かに地図を見るとイタリアは狭いアドリア海をはさんだ対岸、向こう岸との間の物資交換はローマ時代から行われていたようです。